要約

バクテリオファージ、細菌学、獣医学、そして抗菌酵素の社会実装へ。分野を越境しながらキャリアを重ねてきた内山淳平氏の根底には、「次に来る波を読む」という戦略的な視座がある。2000年前後、耐性菌問題が世界的に注目され始めるなかで、あえてバクテリオファージを選んだ博士時代。その後、ファージ療法の可能性を追いながらも、製造、品質管理、規制といった社会実装上の壁を見極め、より実装可能性の高い抗菌酵素へと研究の軸足を移した。現在は、ピッチ登壇、VCとの対話、アクセラレータープログラムへの参加を通じて、研究と事業の境界を越えようとしている。「考えているだけでは、状況は変わらない。人に会い、話してみることで、見える景色が変わっていく」。その言葉には、戦略と行動を両輪にキャリアを切り拓いてきた研究者の実感がにじむ。

*VC・・・ベンチャーキャピタル(Venture Capital)


萌芽「次に来る波を読む」

内山氏が現在、最も熱を込めて取り組んでいるのは、微生物を用いて生産した抗菌酵素を、 動物業界へ実装していく研究だ 。

「学術研究であれば、効果が確認できれば一つの成果になります。でも、社会実装ではそれだけでは終わりません。どうやって安く作るか、コストをどう抑えるか。費用対効果を考えて、『本当にこれできるのか』というところまで掘り下げていく。あとは法規制の問題もあります。もう完全に学術研究の枠を越えているんですけど、それが楽しいですね。」

一見するとニッチにも見えるテーマだが、内山氏の視座は一貫している。

「研究って、分野が違っても、本質的な作業はかなり共通していると思うんです。仮説を立てて、検証して、見つけたことを論文や技術として社会に返していく。その繰り返しなんですよね。」

だからこそ、選び方が勝負だ、と内山氏は言う。競争が少なく、これから伸びる分野はどこか。そして、その分野が社会課題の解決につながるか──ビジネスに近い視点を持ちながら、社会実装まで見据えて分野を選ぶ。2000年、博士時代にバクテリオファージを研究テーマに据えた背景にあったのも、その戦略的思考だった。

「当時、バクテリオファージ研究は一度下火になり、研究者も限られていた領域でした。一方で、2000年前後は、耐性菌が世界的に問題になり始めた時期でもありました。そこで、バクテリオファージを治療に用いるファージ療法に着目し、将来的な社会実装を目指したいと考えました。その中で、この分野に取り組み、世界に向けて成果を発信していた高知大学の研究室の門を叩いたんです。」

研究としての面白さだけでなく、次に必要とされる領域かどうかを見て選ぶ。その判断には、流行の周期まで見通す冷静さがある。

「流行って波があって、次またこれが復活してくるんじゃないかとか、その周期があるんで、それを見て選んだって感じです。」

ファージ療法には大きな可能性があった。一方で、研究を進めるなかで、製造コスト、品質管理、個別症例ごとの対応、法規制など、社会実装までに越えるべき課題の大きさも見えてきた。そこで内山氏は、ファージ研究で得た知見を活かしながら、より設計や品質管理がしやすく、実装への道筋を描きやすい抗菌酵素へと研究の軸足を移していった。


軌跡「5年で景色は変わる」

内山氏のキャリアパスはこうだ。高知大学にて医学系の博士課程に入り、通常4年かかるところを、高い評価を受ける論文成果を上げ、3年での早期卒業を果たした。そのうちの1年──博士課程の2〜3年目にあたる2000年代初頭、内山氏は公的支援を受けてオーストラリアへ渡る。「バクテリオファージだけでは将来の選択肢が限られる」と読み、生理学を学び、研究者としての幅を広げるためだった。

帰国後の卒業間際、「出口のこと、全く考えてなかったんですよね」と内山氏は笑う。気づけば就職先が決まらないまま博士を修了し、半年間、次の所属が定まらない時期を経て、学内の助教として採用されることとなる。その半年間に内山氏は、残った実験データを3報の学術論文として発表した。結果的にその成果が、助教としての船出を支えることになった。

2008年に高知大学の助教として採用されてから7年、内山氏は国立大学から私立大学へと活動の場を移す。2015年、麻布大学への異動である。そしてさらに6年あまりを経て、現在の岡山大学へ。3年から7年という間隔で活動の場を変えてきた内山氏は、一つのキャリアを区切るタイミングを掴んでいる。

「5年というのが一つの単位で、5年やったら大体一つのものが見えてくる。そうしたら、大体移る時期なんじゃないかなと。3年だと、ちょっと短すぎるんですよ。成果が上がる前に終わっちゃう。」

一つの場所に留まるのではなく、5年でひとつの景色を見渡し、次へ移っていく。内山氏にとって、それが研究キャリアを進めるための基本単位だ。


逡巡「オーストラリアで断ったオファー、帰国後の公募」

キャリアのなかで「足踏みをした瞬間は」と尋ねると、内山氏は少し苦笑してオーストラリア留学中のエピソードを口にした。博士課程の2〜3年目に渡豪した内山氏は、現地で思わぬ声をかけられる。

「ポスドクで来ないか、って言われたんですよ。ポスドク2年ぐらいやって、その後に助教に上げてあげるよ、って。」

しかし、内山氏はその話を断った。当時の視界には、日本のアカデミアしか入っていなかったからだ。

「その時は国内のアカデミアしか考えていませんでした。海外に残るという選択肢をもっと真剣に考えてもよかった。当時は日本のアカデミアしか見えていなかったんです。今振り返ると、大きな分岐点だったと思います。」

研究環境、待遇、キャリアの選択肢をより広く見られるようになった現在から振り返れば、その選択は確かに人生の分岐だった。日本の大学のように研究と教育の両方を広く担う形とは異なり、海外の大学は役割の設計自体が違う。研究だけにこだわらず、海外の大学で教育に軸足を置くキャリアもありえた──内山氏はそう言う。

そして、日本に戻ってからも、歩みはまっすぐには進まなかった。

2008年に助教として採用された内山氏は、その3年目から公募への挑戦を始める。ところが、最初の年は書類の書き方にまるで慣れていなかった。

「最初は全く、面接にも呼ばれなかったんです。」

初年度に出した応募書類は3件、翌年は10件。書類選考すら通らない日々が、じわじわと続く。次の場所に行きたい。しかし、その見通しは立たない。どこにも届かない書類を前に、それでも内山氏は、翌日また別の公募に向き合い続けた。


決断「日々の小さな決断が、ポジションを連れてくる」

大きな決断が一度で人生を変えるわけではない──内山氏の歩みは、むしろ、その逆のことを静かに教えてくれる。

最初の節目は、オーストラリアから日本のアカデミアへ戻るという選択だった。海外での研究者の道を示されながら、内山氏が選んだのは、日本で研究を続ける道である。結果的には悔いの残る選択になったが、この決断が、その後のすべての分岐点の出発点となった。

そして日本に戻ってからの内山氏に立ちはだかったのは、一つの分岐点を左右する「大きな決断」ではなく、公募に応募し続けるという「日々の小さな決断」だった。

「公募って、書くごとにだんだん上手くなっていくんですよ。二年目から面接に結構呼ばれて、3年目には、8割ぐらい面接に呼ばれるようになりました。」

初年度は3件、翌年は10件、3年目は20件。合計で30件以上。公募への応募を重ねるなかで、書類の精度は少しずつ上がっていった。内山氏はその過程を、ひとつの比喩で語る。

「アーチェリーと一緒ですよね。ど真ん中に当てるためには、何度も打たなければならない。その精度を上げるためには、練習しなきゃならない。」

2015年、一つの扉が開いた。麻布大学への異動である。そしてこの異動が、内山氏にとって新しい経験の始まりとなった。

「私立大学では、国立大学とはまた違う意味で、組織の一員として経営や社会との接点を意識する機会が多かったんです。特に麻布大学では企業との共同研究も活発で、その環境の中で企業的な観点が身についていきました。」

何より、獣医学の現場に踏み込んだことが決定的だった。細菌学という広い学問の一部しか見えていなかった、と内山氏は振り返る。獣医学部では教員数が限られる分、基礎系の教員も臨床の教員と近い距離で仕事を進めることが多い。現場で「こんなこと困ってるんだよね」という一言が、そのまま共同研究の種になる。異分野はこうして交わる。

「異なる分野が交わる機会は、待っていても来ないんです。自分から動いて、人に会い、話していくことで、初めて変わっていくんだと思います。」


コラム 「ピッチを知らずに登壇した日」

博士号取得、大学間の異動、そして事業化へ──内山氏の歩みに次々と新たな扉を開いたのは、偶然の出会いを行動へとつなげていく姿勢だった。

「『ピッチイベント』って書いてあったけど、『ピッチって何?』というところから始まってですね。登壇してみると、まったく通用しなかったんです。地方銀行関係者と出会い、『こういうプログラムがあるのでやりませんか?』と声をかけられて、参加してみることになりました。」

そこから地域のアクセラレータープログラムに参加し、地方銀行系のVCとつながり、東京のVCとも会うようになった。ギャップファンドも採択され、J-StarX(JETRO*の海外派遣プログラム)では、日本と海外のスタートアップの構造差を目の当たりにした。

「海外のスタートアップでは、大学の研究者がファウンダーになる場合、大学を辞めて専念しているケースが多いんです。一方で、日本では大学に残ったまま起業するケースが多い。海外の投資家からは、『どこまでコミットしているのかを示してほしい』と見られる。それは確かにそうだと思いました。」

コミットメントを示さない限り、資金は動かない。内山氏はこの原理に、深く同意している。
もうひとつ、内山氏がいま強く語るのが、研究者自身のビジネスセンスだ。

「VCは基本的に、M&AやIPO*といった出口を見据えて投資判断をします。一方で、ディープテックやライフサイエンスのように、時間軸が長く、事業化に専門的な理解が必要な領域では、VCだけでは支えきれない部分もあると感じています。」

「プレシードやシードの段階までは、自分で経営も考えられる研究者を育てないと、日本の技術を外に出すことは難しいのではないかと思います。」

ピッチを知らずに登壇した数年前と比べ、いまの内山氏の言葉には、現場で試行錯誤してきた者の実感が宿っている。

*A-STEP・・・研究成果最適展開支援プログラム *JST・・・国立研究開発法人 科学技術振興機構* JETRO・・・独立行政法人日本貿易振興機構 *M&A・・・企業の合併・買収(Mergersand Acquisitions)* IPO・・・新規株式公開(Initial Public Offering) *CVC・・・コーポレートベンチャーキャピタル(Corporate Venture Capital)


結語

取材の終盤、内山氏は自身のキャリア観を、驚くほどシンプルに言い切った。

「どの分野にいても、楽な道ばかりではありません。結局、自分が努力して積み重ねたことが、形を変えて返ってくるのだと思います。だから、どこにいるかよりも、そこで何を積み重ねるかが大事なんじゃないかなと感じています。」

どこでどう働くかで人の価値が決まるわけではない──内山氏の到達点はそこにある。だからこそ、選ぶ基準は外側ではなく、内側にしかない。

「結局、大事なのは、自分が何をやりたいのかだと思います。所属や肩書きに縛られすぎず、自分が本当に取り組みたいことを基準に選べばいい。すごくシンプルですが、それが一番大切なんじゃないかなと感じています。」

若い世代には、そのシンプルさと同じだけ、切実な一言を贈る。

「研究者としての形にこだわりすぎると、選択肢は狭くなってしまうと思います。でも、分野や役割を少し広げて考えれば、自分の専門性を活かせる場所は意外とあるんじゃないかなと。」

研究者としての専門を深める道と、その枠を越えていく道。その両方を行き来してきた内山氏が強調するのは、ただひとつ、動き続けることだけだ。

「考えているだけでは、状況は変わりません。実際に外へ出て、人に会い、話してみることで、見える景色が変わっていく。だからまず動いてみることが大事なんです。」

研究と事業化の両立に追われる日々のなかでも、それでも内山氏は新しい扉に手をかけ続けている。決めれば動ける。動けば、次が見える。内山氏の歩みは、迷いのなかにいる研究者たちに、分野を越えて動き続けることの大切さを静かに示している。