要約

Y社の生物科学研究所に学卒で配属された一人の若手研究者は、入社時の最終面接で「研究所に行かせてくれ」と3回繰り返し、ついにその切符を手にする──研究者・保田氏のキャリアは、その第一歩から「自由のある場所を自分で選ぶ」ことで貫かれている。

Y社では社会実装の建前のもとに転写研究を続け、30歳で渡ったハーバード大学医学部では「ほぼ放置」のなかで初の論文を書いた。帰国後に骨代謝の重要な分子RANKLのクローニングに成功し、発表した論文は現在までに5500回以上引用されている。さらにその抗体は年間1兆円規模の医薬品に育ち、骨免疫学という新しい学問領域を生んだ。

しかし、T大学医科学研究所に講師として移った4年半は、論文を1本も書けないまま終わる。そこには「自由のなさ」ゆえの逡巡の時期があった。

そして再び企業へ。O社での21年で、通算、特許出願50件、論文103報。「企業にはアカデミア以上に自由がある」と言い切れるだけの両岸を、保田氏は歩いてきた。

  

萌芽「日経サイエンスの別冊から」

研究者の出発点は、しばしば、思いがけないところに置かれている。保田氏の場合、それは京都大学理学部の合格通知ではなく、その手前の浪人生活にあった。

「現役時にはちょっと点数が足らなくてですね、結局浪人を2回繰り返しました。」

高校卒業時には、教員になることも選択肢に入れて、別の大学とギリギリまで迷っていた。最終的に京都大学を選んだが、数学の問題1問分の点数が足りずに不合格。1浪、2浪と続いた予備校生活のなかで、保田氏の手元には、たまたま、当時流行していたバイオテクノロジーの本があった。

「日経サイエンスとかのですね、別冊みたいなものが。そういうものをこう読み漁る中で、バイオテクノロジーに興味を持ったと。」

京都大学理学部への憧れと、バイオへの関心。同学部の門をくぐる動機が、保田氏の中に静かに育っていった。

そして大学入学後、もう一度、保田氏は周囲とは異なる方角を選ぶ。アカデミアに残り修士・博士・大学に残るという王道に乗らず、学卒で企業に飛び込んだのである。

「2浪してたっていうことが理由の1つでもあってですね。あとは、どっちかというと企業志向というか、やっぱり何か、いまで言う社会実装ですね、そういうことにも興味があったので、完全にアカデミアに残ろうとは当時思わずに、結局学部卒で企業に入社しました。」

この「社会実装したい」という志向は、その後の40年近いキャリアを通底する一筋の糸として、ずっと保田氏のなかに残り続ける。

  

軌跡「研究所に行かせてくれ」

入社したY社は、当時、乳業メーカーの最大手。理系で研究所に行ける人材は、原則として修士卒以上だった。学卒の人間は、たいてい工場へ──というのが社内の常識である。

その常識を、保田氏は最終面接の30分でひっくり返した。常務・専務クラスを前にした面接で、3回繰り返し「研究所に行かせてくれ」と頼み込んだのである。

「『もういいだろう』って最後に専務が折れまして。言ったもん勝ちかどうか知りませんけど、研究所に行かせてくれました。」

入社後、北海道の工場で予定されていた数ヶ月の研修も、上司となる人物の働きで中止となり、4月末には研究所に配属された。配属先はY社の生物科学研究所。乳業メーカーの「強み」を活かした経腸栄養剤開発部門などの隣で、本格的な創薬研究が動いていた部門である。

そこで保田氏が任された研究は、表向きは「宿主ベクター系の開発」だった。エンハンサーに結合する転写因子を見つけ、それを応用してタンパク質を大量発現させる──そんな筋書きを企業向けの説明として用意したうえで、本人と上司は、実は基礎の転写研究に深く入り込んでいた。

「企業的には目的は達してませんが、300キロダルトンを超えるような当時多分世界一の大きさの転写因子なんかをクローニングしてたんです。」

ねらいの転写因子は、エンハンサー*結合因子ではなく、リプレッサー*として取れた。それでも当時としては桁違いに大きな分子の単離である。社会実装への建前と、基礎研究の自由と、その双方を片手ずつに積み上げる構えが、ここで形になっていく。

*エンハンサー:遺伝子発現を高めるDNA上の調節配列

*リプレッサー:特定の遺伝子の発現を弱める転写因子

  

そんな日々のなかに、ある日「留学しないか」という声がかかる。30歳。保田氏はまだ博士号を持たない、学卒の研究員だった。

「私が30の年ですけども、まだ当時私学位も持ってないんですよね。」

行き先はハーバード大学医学部、肥満細胞(マストセル)と病理に強いラボだった。保田氏はc-kit遺伝子のプロモーターを解析するテーマに取り組み、最初の英語論文を書く。1年の予定だった滞在は、教授と本人の希望で2年に延長された。

ハーバードのラボの空気は、日本のそれとは明確に違っていた。

「割とこう、放任主義といいますかですね、任せるというかですね、まぁ自由は自由なんですよね。」

塩基配列のシーケンス経験者がほぼいないラボで、保田氏は自前でさまざまな実験系を立ち上げ、近くにいた中国人PhDにシーケンスを教える側に回った。データを出し続けるうちに、博士号を持っていないにもかかわらず、スーパーバイザーから「Hi, Doc」と呼ばれるようになる。

「実験ができるってことが分かるとですね、結構周りからの評判が良くなって。ドクターも持ってないのに、私に対してスーパーバイザーが、『Hi, Doc』という風に呼んでくれるようになってですね、まあまあ信用がちょっと上がるんですね。」

帰国後、Y社の研究は「骨」へと向かう。部下と二人のチームで、決めたら突っ走るスタイル。

「もうこのテーマやるぞと決めたら勝手に突っ走った部分もあって、多少摩擦はあったかもしれませんけど、とにかく保田に任せとけばなんか勝手にやるみたいなね、部分があってですね。」

そうして1998年に発表した論文が、破骨細胞の分化を司るサイトカイン「RANKL」のクローニングだった。同年の「ホットペーパー*」のひとつに選ばれ、その後はGoogle Scholarで5500回以上引用される。RANKLに対する抗体はやがて医薬品となり、年間1兆円規模の市場に育った。骨と免疫を結びつける「骨免疫学」という新しい領域が、ここから立ち上がる。

*ホットペーパー(Hot Papers):被引用数が急増している注目度が高い論文

  

学位もまた、思いがけない場面で保田氏の手元にやってきた。保田氏が学んだ京都大学の研究室に企業から留学していた研究仲間が「保田がいい研究をしている」と教授に伝えたことがきっかけで、論文博士の道が拓けたのだ。論文4報以上、日本語の博士論文、ドイツ語の要旨、口頭試問──その条件を整え、1998年、学卒入社から12年あまりを経て、保田氏は京都大学で博士号を得た。

「アカデミアにいなくても、企業にいても、論文を書くチャンスはあるし、当然特許出願はできるし、社会実装はできるし。」

応用研究であっても、論文を書きさえすれば学位の道はある──この実感は、後年、保田氏が大学の講義や部下への助言のなかで何度も繰り返し語ることになる。実際、保田氏は1998年から99年にかけての約2年間で20報以上の論文に関わり、4〜5人のY社の同僚が同時期に学位を取得した。

  

逡巡「自由のないアカデミア」

学位を取り、Y社で論文を書き、論文と特許と社会実装の三拍子を回し始めた頃、保田氏のキャリアに最初の停滞が訪れる。

きっかけは社内の事情だった。上司の本社転勤などで実験がやりにくくなり、Y社を辞めることを決める。2000年4月末。──偶然にも、同じ年の6月、同社は大規模な食中毒事件を起こす。

「もしその事件の後に転職活動をしてたら、なんとなくイメージが悪くて、入れなかったかもしれない。半年、転職活動が遅れてたら入れなかったかもしれないですね。」

転職先は、T大学医科学研究所。京都大学時代の旧知の教授が呼んでくれたポジションで、講師として4年半を過ごすことになる。「もっと自由でパラダイス的なところを想像していた」──当人がそう振り返るほど、出発時の期待は高かった。

しかし蓋を開けてみると、現実は逆だった。

「大学というところはですね、全てが多分そうじゃないんでしょうけど、やっぱり教授単位でですね、それぞれが小さな店舗みたいなものの集合体なんですよね。」

研究室単位で、教授の方針が絶対。だからこそ、教授との相性が合わなければ、それだけで研究の自由は閉ざされる。

「教授との相性とかですね、教授の考え方とかが大事で。」

ハーバードで身につけた「放置されるなかで全部自分でやる」姿勢が、ここでは武器ではなく、摩擦の種になった。

「教授はサイトカインとか免疫の専門家なんです。私は当時骨の専門家で、骨の論文を書いていましたから。」

  

決断「教授か、教授以外か」

転職を決意したのは、T大に移って2年も経たない頃である。だが、そこから動き出すまでに、もう2年近くがかかった。アカデミアの公募にも書類を出したが、T大での論文がないことが響き、書類は通らなかった。

T大での4年半は、保田氏のなかにひとつの結論を刻んで終わる。

「アカデミアに行くには教授でなければダメだっていうのが私の結論なんですよ。」

教授か、教授以外か──大学組織の人事構造による縛りを、保田氏は指摘する。准教授であっても上に教授がいる限り自由は限定され、独立准教授や教授その人になって初めて、研究室を自分の方針で運営できる。アカデミアしか知らなければ、その階段を耐えて登ることに納得もできるかもしれない。だが、保田氏は外の世界を知っていた。

「外の世界を知ってるわけですよ。こんな世界はないなと思うわけですよ。」

もう一度、企業へ戻る。──その決断を支えたのは、Y社時代に身につけた「論文も特許も社会実装も全部できる」という実感だった。

「Y社の時から特許を書く習慣はありましたから。特許書けるものなら書いて、論文書いてってことをやってましたんで。」

研究費の構造も、保田氏には決定打のひとつだった。科研費が落ちてアカデミアの先生が肩を落とす姿は、本人にとって他人事ではなかった。

「企業がいいのはね、毎年決まってお金をくれるわけですよ。それをどう使うかは自分たちが決められるわけですよ。」

毎年決まった研究費。新入社員という形で増えていく人。そして、ある程度の方向性のなかで、テーマを自分で決められる。「お金がある。人がいる。テーマも自分で決める」──この三つが揃う場所の方が、自分にとっては自由だ。保田氏は、そう判断した。

そうして移ったのが、現在まで続くO社である。Y社で身につけた「社会実装の建前」と「基礎の自由」を行き来する作法、ハーバードで身につけた「放置される中で全部自分でやる」姿勢、そしてT大で身に染みた「自由のない研究室の苦さ」──そのすべてを携えて、保田氏は再び企業の研究所の扉を開けた。

 
 

コラム 「特許出願50件、論文103報」

O社での21年は、研究所長として通算10年余、その他には企画開発、品質保証と、立ち位置を移しながら続いている。

なかでも保田氏が手がけた象徴的な仕事のひとつが、自身がY社時代に見つけたRANKLやその抗体の「研究試薬化」である。研究者向けの試薬として商品化し、宣伝として、知り合いの研究者にMTA(物質移転契約)を結んだうえで配布した。

「先生方はそれを使って、成果が出たら学会発表とか論文を書いてくださるわけです。そういう中で、O社のRANKLを使ってこんな論文を書いたっていうことがにマテメソ*書かれますし、多くの場合共同研究にしていただいたんで、私の名前も共著者に入ったりするわけですね。」

*マテメソ(Materials and Methods):論文中の材料や方法を書く部分


通算では、特許出願50件、論文103報。

しかし、数字の派手さよりも保田氏が強調するのは、企業にいながら研究の自由を得ていたということである。

「アカデミアにいなくても、企業にいても、論文を書くチャンスはあるし、当然特許はできるし、社会実装はできる。でもっと言うならば私の経験ではアカデミア以上に自由がある。」

ただし、それは企業ならどこでもそうだ、という主張ではない。同僚の例として、保田氏はある製薬メーカーでハイスループットスクリーニング系の構築だけを担当しているケースを挙げる。日々ロボット用の系を作り続け、創薬全体のごく一部しか触れない。論文も書きづらい。

「私の場合は割と幅広く取り組めて、論文も書けたんです。」

保田氏が強調するのはむしろ、こうしたキャリアパスが「ありうる」と知っておく、ということだ。「その通りやりなさい」ではなく、「こういう道もある」と見せる。それを、後年、自身も大学で語ってきた。

Y社を辞めた直後の食中毒事件、T大での論文の沈黙、RANKLの抗体薬と骨免疫学への波及──偶然と決断のあわいに、保田氏のキャリアは置かれている。だが、その節目に立ち戻るたびに見えてくるのは、「自由のある場所を自分で選ぶ」という、若い頃から変わらない一本の軸である。

 

結語

O社を退職した保田氏は、これからキャリアを積んでいく若手研究者に、いくつかの実用的な助言を残している。

ひとつは、論文博士という制度を「使える人は使ってほしい」というメッセージだ。

「自分の出身の大学の先生にね、連絡をして、最低何報ぐらい書けば取れますかっていうのを聞いときなさいって私は自分の企業の部下に言ってきました。」

大学・分野によって基準は違うが、応用研究の側にいても、論文を積めば学位の道は意外なほど開ける。保田氏は実際に、自身の部下にも論文博士の道を勧めてきた。

もうひとつは、企業で研究することへの偏見を、両方の世界を歩いてきた当事者として外しておく、ということだ。

「アカデミアにいなくても、企業にいても、論文を書くチャンスはあるし、当然特許はできるし、社会実装はできる。でもっと言うならば私の経験ではアカデミア以上に自由がある。」

そして、保田氏自身が研究者としてもっとも欲してきたものを、半ば冗談めかしつつ、しかし本気で口にする。

「私にとって一番いいのは放置なんです。いいよ、いいよ、お前のやりたいようにやっていいよ、まあ、口は出さずに、お金だけは出してくれるみたいなのがベストで。」

放置は、無関心ではない。むしろ、相手の研究者としての判断を最大限に尊重するという意思表示の別名である。Y社で「研究所に行かせてくれ」と言い続けた20代の保田氏に、最終面接の専務が「もういいだろう」と折れたあの瞬間からそうだった。ハーバードでの「Hi, Doc」も、Y社で「保田に任しとけば勝手にやる」と言われたチームも、すべて、そういう形の「放置」のなかで保田氏が成果を挙げていった例である。

逆に、口出しを許せなかったT大の4年半は、自分の輪郭を裏側から教えてくれた。

特許出願50件、論文103報、RANKLという1兆円規模の医薬品の起点、骨免疫学という学問領域の誕生──華やかな数字の裏側にあるのは、毎年の研究費と人とテーマを「自分で決められる」場所を選び続けた、地味で頑固な意思決定の積み重ねだ。

「自由のある場所を自分で選ぶ」。そのとき、若手研究者の前に拓ける選択肢は、一般に語られるよりずっと広い──というのが、保田氏が二つの世界を歩いてきた末に届けてくれる、最も実用的なメッセージである。